Mag-log in青嶺療養院から面会許可の返答が届いたのは、その日の夕方だった。 白い壁には、午後の光が薄く伸びていた。 面会時間は、翌朝十時から三十分。 三十分。短いと思った直後に、長すぎるとも思った。会った瞬間に何も言えなかったら、その三十分はどう流れるのだろう。逆に、言葉が止まらなくなったら、誰が止めるのだろう。 同席者は二名まで。 医療記録の閲覧は不可。 録音・撮影は、本人または施設責任者の同意がある場合のみ可。 高瀬さんが読み上げる声は、いつも通り平坦だった。 最後の一文で、わずかに間が空いた。「対象者本人の体調により、当日中止となる場合があります」 高瀬さんの読み上げが、そこで一度止まった。 私はテーブルの上に置かれた文書を見た。施設名、面会日時、担当者の部署名。どれも整っている。整っているのに、紙の端を見ているだけで、息が浅くなる。「本人には、ちゃんと聞けているんですか」 自分の声が、少し硬かった。 高瀬さんはすぐに頷かない。「施設側の回答では、本人の状態を考慮したうえで、短時間の面会なら可能、という表現です。本人が明確に面会を希望した、とは書かれていません」「では、本人が会いたくないと言ってる可能性もある」「あります」 私は文書の面会時間へ目を落とした。 会いたくない。 その可能性を、なぜか私は考えないようにしていた。 母かもしれない人がいる。 生きている。 会えるかもしれない。 そこまで考えた時、私はいつの間にか、相手も自分を待っているような気がしていたのだと思う。 図々しい。 赤ん坊の時に引き離されたかもしれないからといって、二十四年後に突然現れる女を、向こうが受け入れなければならない理由はない。 私が黙ったままでいると、律が声を落とした。「会いたくないと言われることを考えていますか」「……分かりますか」「少し」「今は、見抜かないでください」「すみませ
「ただ、その前に、葵さんの面会の方を止めたくありません」「両方進めます」 高瀬さんが頷く。「葵さんについては、青嶺療養院へ再度、面会申入れと安全確認を行います。看護師長については、まず所在確認を進めます。確認できた場合も、本人の意思を優先します。どちらも、康生氏に直接情報が流れない経路で進めます」「そんな経路、ありますか」「作ります」 高瀬さんの声は、淡々としていた。 廊下を誰かが通り過ぎ、白い靴音がすぐに遠ざかった。 私は高瀬さんの端末に開かれた進行表を見た。知らない欄が、また一つ増えていた。「まだ途中でも、私に関わることは知らせてください」「分かり次第、ご連絡します」「私には知らせない方がいい、とは決めないでください」 高瀬さんが、ほんの少しだけ口元を動かした。「お伝えできないことがあれば、その理由もお話しして、記録に残します」「お願いします」 会議が終わりに近づいた時、葛城が椅子の背から少し身を起こした。「朝霧さん」 私は葛城へ向き直った。「原初のカルテを見れば、何か変わると思ってました」 葛城が言った。「誰がですか」「私が、です」 葛城は一度言葉を切った。「康生を止めれば、少しは戻ると思っていた。……戻りませんでした」 葛城は笑おうとしたように口元を動かしたが、形にはならなかった。 膝の上で組んだ指が、一度だけほどけた。 すぐに、また組み直した。「今さら」「今さらです」 葛城は、静かに頭を下げた。 私は、その姿を見ていた。 許す気にはなれなかった。 でも、彼がただの情報係ではない。そのことだけは分かった。 痛みから逃げ続けた人間が、ようやく痛みの前に立っている。 遅い。 遅すぎる。 ファイルは高瀬さんが保全袋に入れ、受領記録を作成した。葛城から受け取った控えは、そのまま証拠には使わない。移管先への照会
「旧白桐産院の移管資料の中に、同じ識別符号を含むファイル番号があります。つまり、葛城氏が持参した控えと、正規に保管されている資料の目録が、一部一致します」「それは、強いんですか」「入口としては強いです」 高瀬さんは断定しない。「ただし、目録は中身そのものじゃありません。正式開示を求めるには、九条葵さん本人、または法的代理権を持つ人物の協力が必要になります」「康隆さんでは」「現在の権限がどうなっているか確認中です。康生氏側が成年後見や施設契約を押さえている場合、簡単じゃありません」 また、康生。 どこへ行っても、その名前が道の途中に立っている。「葵さん本人の意思は」 私は聞いた。「確認できるんですか」「面会できれば」 高瀬さんは短く答えた。 できれば。 昨日から、その言葉ばかりだ。 できれば会える。 できれば聞ける。 できれば開ける。 でも、康生が先に扉を閉める。「狭山さんの今の所在は、本当に分からないんですか」 私は葛城を見た。 葛城は鞄から、もう一枚の紙を出した。 それは住所ではなかった。 住民票の写しでも、調査報告書でもない。古い年賀状のコピーと、閉院後の連絡記録の一部だった。個人情報に当たる部分は伏せられている。 狭山。「これが、私の持っている最後の連絡記録です」 葛城が言った。「現在の姓も住所も、把握していません」「隠れてる、っていうのは」「表に出れば、康生に潰されると考えた可能性はあります」「あなたには、その後会ってないんですか」「会っていません」「証言してくれるかも、分からない」 葛城は、答えるまでに間があった。 その沈黙で、私は少しだけ分かった。「怖がってるかもしれないんですね」「そう思います」「あなたのせいでもあるんじゃないですか」 葛城の顔がわずかに強張る。 言い過ぎたか
最初の記載を読んだところで、紙を持つ手が止まった。 口をつける気になれない水が、紙コップの中でわずかに揺れていた。「ここに、九条葵さんの子が生きてた痕跡があるんですね」 声は、自分でも聞こえないほど低かった。「痕跡です」 高瀬さんが答える。「断定じゃありません。ただ、死産として処理された記録と矛盾します」 矛盾。 高瀬さんはそう言った。私は死亡確認の欄へ視線を落とした。 次の紙には、死亡確認の控えがあった。 そこには、同じ日付と、九条葵の名がある。 ただ、出生時刻と死亡確認時刻の間に、不自然な空白があった。欄外に小さな訂正印が押され、確認者の署名が上からなぞられたように濃くなっている。「この訂正印は」 私が聞くと、葛城が答えかけ、高瀬さんが先に言った。「元看護師長の署名とされています。ただし、本人確認が必要です」「狭山さん」「狭山さんです」 狭山という名前を、頭の中で繰り返した。 まだ会ってもいない人なのに、急に輪郭を持つ。 狭山。 二十四年前、そこにいた人。 見ていたのか。署名したのか。署名させられたのか。 どれなのかは、まだ分からない。 でも、その人が何かを知っていることだけは、もう分かった。「次を」 高瀬さんが言う。 葛城は静かに三枚目を差し出した。 それは、看護記録の一部だった。 医療用語は多くない。むしろ、短いメモの連続だった。 母体、鎮静後安静。 児、保温継続。 識別帯確認。 九条A。 その記号に、私は目を止めた。「九条Aとは」「当時の識別符号です」 葛城が答える。「九条葵さんの児を示してた可能性が高い。ただし、これも記号だけでは断定できない」「便利な言い方ですね」「……分かっています」 私は紙から目を離せなかった。「これが私なら、って
ファイルの中身は、思っていたより薄かった。 ファイルをめくる音が、静かな部屋に残った。 厚いカルテ束が出てくると思っていたわけではない。それでも、二十四年分の嘘へ触れるには、あまりにも頼りない量に見えた。 コピー用紙が数枚。 保管目録の写し。 旧白桐産院の閉院時資料移管リスト。 そして、手書きのメモが一枚。 高瀬さんは、すぐには中身を私へ渡さなかった。「先に確認します」 いつもの声だった。「ここにあるものは、二種類です。一つは葛城氏が元看護師長から預かった控え。もう一つは、旧白桐産院の移管資料について、正規照会で確認できた保管目録の写し。医療記録そのものの開示じゃありません」「見てはいけないものですか」「違法に取得した原本じゃない、という確認が必要です」 高瀬さんは、言葉を選ばなかった。「元看護師長の控えだけでは足りません。移管先の資料や本人確認と照合して、初めて使えます」「……これだけで決まり、ではないんですね」「はい」「本人っていうのは、看護師長さんですか」「狭山さんです」 私は頷いた。 早く見たい気持ちと、見たくない気持ちが、喉元で同じ場所を取り合っている。 律は何も言わず、テーブルの端に置かれた水のグラスをこちらへ寄せた。 飲めとは言わない。 置いただけ。 私はそのグラスを見て、少しだけ呼吸を整えた。「先を見せてください」 高瀬さんが最初の紙を置く。 旧白桐産院 分娩記録控え――看護記録抜粋。 見出しには、そう書かれていた。 紙面の一部は黒塗りにされている。母体の詳細、住所、当時の担当者番号。必要のない個人情報を伏せたのだと、高瀬さんが説明する。 それでも、読める部分があった。 母体名。 九条葵。 その三文字を見た瞬間、手の先が冷たくなった。 九条邸の肖像画。写真の中で笑っていた若い女性。療養院にいるかもしれない人。 その名前が、病院の紙の上にあった。「新生児欄を見てください」 葛城が言った。 高瀬さんが、すぐに横目で制した。「説明は、必要な箇所だけにしてください」「説明を絞ります」 葛城はわずかに視線を落とした。 私は紙の中央へ視線を落とす。 女児。 出生時刻。 体重。 呼吸あり。 保温処置。 経過観察。 死産では、なかった。 文字は淡い。 コピーを重
「私が止めたら、そこで止めてください」 言い終えると、口の中が乾いていた。 冷めた茶の色が、白い磁器の底で濃く見えた。 葛城は頭を下げた。 深すぎるほどではない。謝罪としては足りず、礼としては重い角度だった。「……分かりました」 葛城がファイルの留め具に手をかけた。「では、話を戻してください」 葛城は手を止め、ファイルの表紙へ目を落とした。「次は、こちらで『原初のカルテ』と呼んでいる記録です」「原初?」 高瀬さんが、資料用の端末へ視線を落とした。「死産偽装前の医療記録ですか」「正確には、分娩直後の初期記録と、その後に作成された死亡関連書類の間にある差分です」 医療記録。 その言葉だけで、母体、赤ん坊、血、泣き声、そういうものが一気に近づいてくるように思えた。「どこにあるんですか」「二つあります」 葛城は鞄から、封筒ではなく、薄いファイルを出した。 高瀬さんがすぐに制する。「中身を出す前に、提供元と取得経路を明示してください」「承知しています」 葛城はファイルを閉じたまま、テーブルへ置いた。「一つは、旧白桐産院の閉院時に移管された資料の写しです。移管先の医療法人に正式照会を入れ、保管目録だけは確認できます。ただし、開示には権限が必要です」「もう一つは」「元看護師長が、保管してた控えです」 元看護師長。 部屋の中の空気が、少しだけ重くなった。「その人が、二十四年前の現場にいたんですか」 葛城は頷いた。「狭山。旧白桐産院の看護師長です。彼女は、九条葵さんの分娩に立ち会っています」「今、どこに」「現在の所在は把握していません」 葛城は、そこで初めて言葉を切った。「閉院後に姓を変えたと聞いていますが、その後の所在は分かりません。身を隠した可能性はあります」「康生さんから?」「あります」 高瀬さんが、資料の表紙だけを撮影する。 私はファイルを見つめた。 原初のカルテ。 生きていた痕跡。 その中に、私の始まりがあるのかもしれない。 でも、それを開く前に、もう一度だけ葛城を見た。「そのカルテを、私に渡す理由は」「康生を止めるためです」 今度は、はっきり言った。 私は頷いた。「葵さんに会うために見ます」 葛城の視線が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。「同じ資料でも、あなたの目的とは違います」
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし







